マンガばかり読んでないで(空想の母親)

現代社会(いつからかは知らないが)において、マンガや映画がこれだけ発達して質の高い物語を提供しているのに、小説なんて読む人はいるのか、という趣旨の議論はよくあるものだと思う。正直、現代日本の優秀なクリエイターはこれらの分野に集まっているのは確かだと思う。これに対して、僕は負け惜しみではなく、小説の方が面白い、と感じてきた。だが、感じるだけでは他人と議論することはできない。ここ数日ホテルに缶詰だったので(原稿を執筆しているわけではなく、単に田舎で移動手段がないため)マンガを読むことが多かったのだが、その中で気づいたことをメモする。

マンガと映画(と演劇)はまず視覚芸術、造形学の分野であり、語りの文法としては空間的連続性が必要であり、したがって時間的にも連続した一連の場面を組み合わせることが基本となる(幕、モンタージュ、コマ割り)。戦闘を含むアクションや犯罪を含むサスペンス、邂逅を含む恋愛など、強度ある場面のデザインがシナリオに加えて重要な要素となる(キャスティング、舞台装置、衣装、特殊効果、画力)。一方で、言語芸術、文学の分野である小説の語りは、ある場面を描写する自然主義的な語りから、時には舞台装置も何もない地下室で独特な思想を語りだすドストエフスキーの登場人物までの振れ幅を見れば、空間的・時間的連続性は必ずしも重要な要素ではない。現実により近いのは空間的・時間的に連続した「場面」だが、それを言葉によって人が語る、あるいは語りなおすプロセスを経た時、それは避けがたく変質するだろう。この語りのプロセス自体に言葉の独自性を認めたのがいわゆる現代文学といってもいいと思う。その冒険は一般読者からの遊離とも批判されるが、視覚芸術との差異化という戦略でもあるかもしれない。

 少し脱線になるが、上記の図式で行くと、文学のうちでも視覚芸術に近接しているのがリアリズム的描写であるように、視覚芸術のうちでも文学に近づくのが独白であり、演劇は最もこの要素を残したジャンルであると思う。(フランス近代小説は声に出して読まれる前提で書かれていたように、具体的な声と黙読とは違う知覚作用をもたらすが。)マンガでも多様な立場の人物の独白が多い作品や、映画でもコリントの信徒への手紙を満島ひかりが読み上げる場面などには、文学に近接したものを感じる。