貝に続く場所にて 石沢麻依

7月、ゲッティンゲン駅で旧知の野宮を迎える。9年振りの再会という関係を踏まえてもなにか異様なぎこちなさが彼と語り手の間にある。9年前、仙台市の山沿いの地区で被災した後、徐々に災害の全容が見えてくる中、大学院の知人である野宮が石巻市で行方不明であることが分かった。遺体が確認できていない中、事実上の死に反して9年後に現れた彼に、語り手は幽霊という言葉を使うことを躊躇する。異国の地への彼の出現という事実と、震災の記憶が描写される中で、あたかも量子論の重ね合わせのように、生と死がどちらとも決定できないまま、読み手の主観=観測がそれをどちらかに固定する前に、語りはリアリティと幻想の間を進んでいく。

夏中、不思議な出来事は続く。天体のオブジェの中で準惑星の扱いに伴い撤去された冥王星の目撃の噂、身の回りの品物の発掘、街中に出来する過去の建物や人物、そして寺田(寅彦)の出現。語り手や特定の人物の主観や妄想ではなくて、街の複数の人の証言から構成される異常事態は、街が見ている幻想のようだ。野宮が好きだった寺田寅彦がゲッティンゲンへ留学していたという事実から、2020年夏のドイツのその街という語り手が存在する時空へ2人が出現して人間関係さえ築いていることを、リアルと幻想の間で慎重に進められた語りの中で読み手は受け入れていく。それはこの年に警告はされていたとしても現実離れしたコロナ禍の異変を、世界中の人々が徐々に受け入れていったことと似ているかも知れない。

語り手と野宮、共通の知人の澤田らが専攻していた西洋美術におけるアトリビュートの主題、その中でも語り手が興味を持っているのが聖遺物への信仰の歴史だ。聖人への信仰がその持ち物へ延長し、物質が象徴的な意味を持つプロセスは、巡礼が盛んだった時代において、過去となってしまった聖性へ近づこうとする熱望のように思える。一方で、進歩主義の思想を経た現代ドイツにおいては、同じように歴史をオブジェとして物質化することは、過去への接近というよりも、むしろ避けられない過去からの乖離に抗う抵抗のように見える。他の街と同じくこの街でも「蹂躙された多くの人の記憶」、シナゴーグの襲撃やユダヤ人の連行をオブジェが伝えている。*1

トリュフを見つけ出すのが得意な犬が次々に発掘する人々の身の回りの品=アトリビュートは、その人へ自身の過去と向き合うことを強いる。街や国家としての記憶への姿勢と、個人のそれはまた異なる。乳房のアトリビュートを持つシチリアのアガタと同じ名を持つルームメイトのアガータは、発掘された乳房(!)に象徴される乳がんで亡くなった母の記憶と向き合うことができるだろうか。背中から生えてきた歯(!)に狼狽する語り手も、揺れとその後の被災生活という自身の被災の経験と、津波原発事故による故郷の喪失といった東日本大震災全体の途方もない被害との距離を噛み砕くことができていない。野宮の持っている帆立貝は、西洋美術史で言えばサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼でシンボルとなった聖ヤコブアトリビュートであるが、彼にとってはそれよりも故郷石巻の海と結びついた品物だっただろう。時空が混在する真夏のゲッティンゲンで幻視される仙台の七夕祭りのように、街が持つ記憶と、その間を移動する個人の記憶は常に交差していて、その重層関係を感じることが、記憶と向き合うことなのかもしれない。

 

*1:戦後日本は物質より語りに重きを置いたように思える。直接経験者が少なくなる中でそれをどう語り継ぐのか、また別の話題でもある。

データサイエンティスト

私が食い扶持を得ている業界は、10年くらい前はブラック職場と言われることが多かったけれど、ふと気がつくと人材が足りない、外資系は高給がもらえるみたいな活況に見えることもある界隈だ。ある程度歴史を分かるようになると、汎用機からオープン化への置換えやインターネットの普及が一つの波で、その中でビジネスモデルが確立しないまま、前例がない仕事をした結果ブラック職場化した所はあったのではないか、と思う。10年たって企業たちがある程度ビジネスモデルを確立したところで、また大きくスキームが変わる。

まあその辺はどうでもよくて、データサイエンスに取り組むフランコモレッティの遠読を読んだ時に、趣味の世界に囲い込んだ文学研究とお金が欲しくてやってる実業が交錯したので少し驚いた。文学研究者になろうと真面目に考えた10年前に、例えば19世紀フランス文学のように、ある暫定的な地域の暫定的な100年をフィールドにしたとしても、そこに含まれる文学作品を全て読み切れることはないだろうなとは思った。ましてや表象文化全般を視野に入れれば、小説や詩だけ読んでいればいいわけではない。幻想文学のようにさらに領野を絞るならむしろ地域や時代を拡げるべきだろうけど、そうすると既存の文学部に着地しづらくなるだろうとも思った。求められる専門性と、拡がる興味の絞り込みのバランスが上手にできないという一般的な悩みとしか考えなかったけど、この著者が文学研究のアプローチとして、どう研究対象の量に向き合うかということを考えているのは新しい視点だと思う。時々ゲーテが出てくることから、自然科学と人文科学が分離していない頃を夢見ているんだろうと勝手に想像して共感する。そんな知は個体には不可能だとしても。

もう一つ、私が所属しなかった大学という組織も、90年代の大学院重点化と00年代の法人化という行政、あるいはカネに振り回された歴史を持つ。実業でなくても、方針に従ってカネが回るようにしなくてはいけない。学問はビジネスではないけど、ビジネスモデルがないと企業主導の経済世界ではやっていけない。

マンガばかり読んでないで(空想の母親)

現代社会(いつからかは知らないが)において、マンガや映画がこれだけ発達して質の高い物語を提供しているのに、小説なんて読む人はいるのか、という趣旨の議論はよくあるものだと思う。正直、現代日本の優秀なクリエイターはこれらの分野に集まっているのは確かだと思う。これに対して、僕は負け惜しみではなく、小説の方が面白い、と感じてきた。だが、感じるだけでは他人と議論することはできない。ここ数日ホテルに缶詰だったので(原稿を執筆しているわけではなく、単に田舎で移動手段がないため)マンガを読むことが多かったのだが、その中で気づいたことをメモする。

マンガと映画(と演劇)はまず視覚芸術、造形学の分野であり、語りの文法としては空間的連続性が必要であり、したがって時間的にも連続した一連の場面を組み合わせることが基本となる(幕、モンタージュ、コマ割り)。戦闘を含むアクションや犯罪を含むサスペンス、邂逅を含む恋愛など、強度ある場面のデザインがシナリオに加えて重要な要素となる(キャスティング、舞台装置、衣装、特殊効果、画力)。一方で、言語芸術、文学の分野である小説の語りは、ある場面を描写する自然主義的な語りから、時には舞台装置も何もない地下室で独特な思想を語りだすドストエフスキーの登場人物までの振れ幅を見れば、空間的・時間的連続性は必ずしも重要な要素ではない。現実により近いのは空間的・時間的に連続した「場面」だが、それを言葉によって人が語る、あるいは語りなおすプロセスを経た時、それは避けがたく変質するだろう。この語りのプロセス自体に言葉の独自性を認めたのがいわゆる現代文学といってもいいと思う。その冒険は一般読者からの遊離とも批判されるが、視覚芸術との差異化という戦略でもあるかもしれない。

 少し脱線になるが、上記の図式で行くと、文学のうちでも視覚芸術に近接しているのがリアリズム的描写であるように、視覚芸術のうちでも文学に近づくのが独白であり、演劇は最もこの要素を残したジャンルであると思う。(フランス近代小説は声に出して読まれる前提で書かれていたように、具体的な声と黙読とは違う知覚作用をもたらすが。)マンガでも多様な立場の人物の独白が多い作品や、映画でもコリントの信徒への手紙を満島ひかりが読み上げる場面などには、文学に近接したものを感じる。

気持ちのいい議論

細谷雄一の「歴史認識とは何か」を読む。日本がなぜアジア太平洋戦争を行ったのか、特に敗戦という結果から見れば少なくとも避けるべきだった対米戦を開始したプロセスについて、第一次大戦を機に平和協調へトーンの変わった国際社会と、従来の帝国主義的感覚のままだった国内政治のずれを主要因として、明快に論じる。議論の帰結として、国際社会・国際感覚と絶えず擦り合せをし、ずれを最小限にとどめることが日本の政治の進むべき道ということだろう。

平和協調という戦後の国際社会と併存する路線は基本的には受け入れられただろうし、他に国が滅びない道はなかったように思える。戦争というのは、ある戦後の秩序への挑戦、具体的には領土線の変更要求だとすると、その要因になるのは国内政治や経済の動揺だろう。浅田彰氏は最近日経でアメリカの変節や北朝鮮情勢を30年代と重ね合わせて論じていたが、まさに今の国際社会にある程度シンクロできている日本から見た中国や北朝鮮の見え方こそが、30年代の欧米国家から見た日本の見え方だったのではないかと想像する。

歴史的経緯を全て踏まえた場合、そうした現行を変える要求は理不尽なものだろうか?殲滅戦以前は許されていた戦争という手段が、核兵器の開発によって現実的ではなくなった世界では、現行秩序の変更は不可能なのだろうか?中国やロシアに寄って話しているわけではなく、日本から見ると、尖閣諸島北方領土は死守すべき国土であるが、一般的に核以後の国際社会における国家にとって現状変更の行動は取りえないものなのか、という問いである。

西郷は戊辰戦争の死者に申し訳ないと感じていた。靖国に埋葬された人のうち、刑死された人の位置づけについては議論があるだろうが、徴兵され、程度の差はあれ国家に殉じて現場で戦死した市井の人の霊については、僕はその魂に手を合わせたいと思う。その霊に思いを馳せるとき、歯切れのいい戦争断罪議論の気持ちよさは、どこか居心地の悪いものに感じられる。

インフラ・家電・ソフトウェア

長嶋有の「電化製品列伝」を読み始める。始めの節のセンセイの鞄における乾電池についての読解と所感がとてもいい。当作品は未読なのだけど、恋愛関係になる2人の出会いの空気感の表現力とその読解に合わせて感銘を受けた。

長嶋氏は私より一回りくらい上の方で、私より下の世代はいわゆるデジタルネイティブとしてモノではなくデータの世界を身近に感じ感興を共にするだろうから、何となく過渡期の家電製品というものに哀悼も含めた感情を抱く。自分が子どもの頃は家にあったが、自分が家を持つ頃には特に存在感がないモノたち。一方でデータの世界についても10代の終わりからSNSに親しんだ世代としては(歳がバレる)語りたい気持ちもある。

Twitterを始めてはや10年くらい立ち、利用者の増加に応じてその様相や社会的位置付けも変わったが、私個人として距離を置いているのはその根本部分である、リアルタイム性への懐疑だと思う。文章を書くことがリアルタイムでなされることには、浅薄な思考のもたらす混乱とその影響の強さという悪影響を感じざるを得ない。ブログ、というもう少し頻度の少ない媒体へ回帰したのはそのせい。ITの仕事柄、仕事のなされるサイクルの持つ意味とそれによる意思決定の違いには敏感でいたいが、生活においてもそれを設計する必要かあるのではないか。とシリコンバレー的なことを言ってみる。

せごどん

せごどんは海外の回線のせいで画質が悪いこともあり(脚本も、、)最近は見なくなっていたが、先崎彰容「未完の西郷隆盛」を読み始めている。5章はそれぞれ日本の思想家を取り上げ、日本思想史のような形で西郷論を追う形式となっており、筆者にとって思い入れのある南洲を直接語るには至らないことも含め未完という題とのこと。福沢諭吉に続き、第2章は中江兆民を扱う。兆民と西郷を語る第3項として参照されるのはルソーで、全体意思と一般意思の閾を越える手続きとは他者との対話であり、両名はそこに儒教的道徳の必要性を感じていた点で通じ合うものがあったとの論旨。

そういえば、西郷は征韓論によって大アジア主義と結びつくし、三酔人経綸問答でも豪傑君の大陸進出論は両極の一方だとしても極に寄っているという印象だったけれど、それは戦後スキームからの見え方で、当時の(西洋的な)国際政治感からするとそこまで野蛮でもなかったのかも知れない。と、アレントの革命についての冒頭で戦争の正当化についての小史を読んで思う。戦争が政治にとって本当に破壊的なものとして認識されるようになったのは、殲滅戦の始まる第一次大戦後から。

インターネット上で勉強しようと思うもの。

英語の発音

美術史

Big history(なるもの)

物理学

スマホを弄っているように見えて実は学んでいる。一つ目は発音するから一人の時しかできないけど。ノリよく喋るとNativeって判定してもらえてうれしい。(判定が甘い)