気持ちのいい議論

細谷雄一の「歴史認識とは何か」を読む。日本がなぜアジア太平洋戦争を行ったのか、特に敗戦という結果から見れば少なくとも避けるべきだった対米戦を開始したプロセスについて、第一次大戦を機に平和協調へトーンの変わった国際社会と、従来の帝国主義的感覚のままだった国内政治のずれを主要因として、明快に論じる。議論の帰結として、国際社会・国際感覚と絶えず擦り合せをし、ずれを最小限にとどめることが日本の政治の進むべき道ということだろう。

平和協調という戦後の国際社会と併存する路線は基本的には受け入れられただろうし、他に国が滅びない道はなかったように思える。戦争というのは、ある戦後の秩序への挑戦、具体的には領土線の変更要求だとすると、その要因になるのは国内政治や経済の動揺だろう。浅田彰氏は最近日経でアメリカの変節や北朝鮮情勢を30年代と重ね合わせて論じていたが、まさに今の国際社会にある程度シンクロできている日本から見た中国や北朝鮮の見え方こそが、30年代の欧米国家から見た日本の見え方だったのではないかと想像する。

歴史的経緯を全て踏まえた場合、そうした現行を変える要求は理不尽なものだろうか?殲滅戦以前は許されていた戦争という手段が、核兵器の開発によって現実的ではなくなった世界では、現行秩序の変更は不可能なのだろうか?中国やロシアに寄って話しているわけではなく、日本から見ると、尖閣諸島北方領土は死守すべき国土であるが、一般的に核以後の国際社会における国家にとって現状変更の行動は取りえないものなのか、という問いである。

西郷は戊辰戦争の死者に申し訳ないと感じていた。靖国に埋葬された人のうち、刑死された人の位置づけについては議論があるだろうが、徴兵され、程度の差はあれ国家に殉じて現場で戦死した市井の人の霊については、僕はその魂に手を合わせたいと思う。その霊に思いを馳せるとき、歯切れのいい戦争断罪議論の気持ちよさは、どこか居心地の悪いものに感じられる。